• 占い風水ファン 銀河の学習放浪記 参考にしてね

今は昔、パラレルワールドの銀河の星ありけり…。

 2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」24年の「光る君へ」私にはお宝大河になりました。私の星の巡礼は、パラレルワールドの銀河の守護天人の教え、地上に占いとして伝わる古代からの秘宝を巡ることですが、歴史ドラマの、語り継がれる物語を巡ることでもありました。

 吾妻鏡の世界 私が中学生の時に、源頼朝公と尼御台北条政子さまの物語を大河「草燃える」でみました。そして、作家の永井路子さんの歴史小説で、鎌倉武士たちの物語、平安貴族。

 平安末期、鎌倉幕府の創建に先立つ、平家政権への反攻の狼煙は、伊豆に流されていた源頼朝公は、三嶋明神の祭りの夜に、山木館への襲撃として始まりました。その時の、第一の矢を放ったのが、私の身内の先祖である佐々木氏の四兄弟の1人でした。次男だったかな。

 旗揚げに、合流が遅れたのは、雨で川が氾濫し、佐々木の到着が遅れたから、襲撃の蜂起の時間も延期されて夜遅くになったと伝わっているようです。源氏に仕えていた佐々木四兄弟の父の、高齢の佐々木秀義の妻は、頼朝公の父の源義朝の姉妹で、四兄弟は、そうしてみると頼朝公の従兄弟。親戚でもあったようです。

 のちに、木曾義仲追討に、軍を出した時、梶原景季が望んでも、名馬 いけずきを頼朝公はお許しになりませんでしたが。佐々木高綱にはOK!それはないよなと、いけずきに佐々木が騎乗することを知り、梶原景季がショックを受けていると、佐々木高綱は「おゆるしがないと思って盗んで来たよ。」と嘘を言って、相手を笑わせて、やっかみをかわすのでした。

コレだけでも、高綱は、なかなかの機転ですね。

 佐々木は、頼朝公に、宇治川の先陣を渡れなかったなら、私は命を落としていると思って下さい!と命懸け宣言してしまい、その後…?有名な宇治川の先陣争い!トリックスターのような機転で佐々木は、並んでいる梶原に「馬の帯がゆるんでいるよ!」と親切に?言うと。「えっ?」点検必要?一瞬注意がそれた隙に佐々木は先陣を、名馬と川に飛び込み対岸へ。見事に先陣を!

これ、まだ佐々木の四郎高綱は20歳くらいでしょう。若さの怖いもの知らずに、この頭脳の機転⭐️⭐️⭐️

源氏の陣営は、軍事の天才だった義経の配下も、佐々木がいて、こんな話が平家物語には伝わっていたのでした。鎌倉恐るべし。平家物語も平家陣営の人々の悲しみの悲劇の物語だけなのではないと思えてしまいました。

また畠山重忠もいて、溺れそうな武者を対岸にあげてやると、その武者が「我こそは1番乗りだ!」と叫んで、助けられておいて?と敵も味方も大笑いしたと、戦場なのにユーモア&人間模様といいますか、これは、世の中のこのタイミングで?決死の戦闘の中、面白く天才的な人々が?そして笑ったり、驚きやそれを物語として記録し、伝える人々も日本にはかつていたのでした。不思議の世界。古典を読むべきですね。

 戦犯のように流罪になっていた頼朝公の旗揚げに参画して、若者がこの働き??本当の武士道って!レジェンドになるのは、精神の自由と才覚だったのかも知れません。現代も若い人にアレはダメコレはダメとか?いったところで、違うような気がいたします。若者の発想の自由恐るべし!

名馬いけずき(生食)東北の産の名馬のようですね。生食 (ウマ) – Wikipedia

はい、この話をなぜ今ここで?🔷奇門遁甲(きもんとんこう)に、頭脳でライバルを出し抜く「鬼遁」(おにとん)という方角があるから…です。

そう!この方位を使うと、機転と要領、そして敵がミスをしたりして、気がつくと奇跡がおきているのでした。若い人を天才にするチャンスを与える大切さ。

梶原氏も、頼朝公のピンチを救った一族でしたが

名馬いけずきを、梶原景季でなく、佐々木高綱に与えた源頼朝公の先見性若者を見る目があった?

佐々木氏は、川を渡ることに、縁がある武将なのでしょうか?

風水で、川は、水は運を遮る、運を止めたり、人が集まり、財を運ぶ、人との交際を意味したりする見方もあるようですね。

天の時、地の利、人の和? 人の和ってこういうことだったとしたら、びっくりですが。

佐々木氏、平安時代の宇多源氏の末裔。

大河「光る君へ」の藤原道長の妻、源倫子(りんし のりこ)の兄弟の家系です。この後も、禅僧の夢窓国師がでたり、南北朝、室町時代の近江滋賀県の六角氏、京極氏、戦国の豊臣秀吉の妻の淀君の家族の家系でもありました。宇多源氏や佐々木氏の話 私の「鬼門の地政学」の考え方の開運のヒントを探訪していきたいと思っております。

この、鎌倉の武将たち関連の話を、ハートのクイーンの女神さまにお話しましたら、貴族のお姫様が私の前世、魂のグループに、守護におられるとのご指摘でした。え?公家の女性?

はい。実は、私にはここからなのであります。生来、体調もよろしくなく、人生の不幸にしょげておりました時に、この方が、心配してくださっているとのお話でした。どうも若い頃から平安文学や鎌倉の武将たちの物語がお気に入りでしたが、もしかしたら、鎌倉時代の人の影響かも知れません。

おかげさまで、平安も鎌倉も、自分の遠い記憶の中に眠っている感覚があるような気がします。

日本の中に、京と鎌倉の二つの中心ができました。運命は、その後も、京と江戸。

京都と東京。二つの拠点があります。

海外にも、長安と洛陽? ワシントンとニューヨークもありました。

 鎌倉時代には、女性の紀行文が残されていました。相続の訴訟に息子たちのために京から鎌倉に出向いた阿仏尼の「十六夜日記」出家した後、諸国を遍歴した「とはずがたり」の後深草院二条。

もう一つの都 パラレルワールドは、本当は時代を超えて存在しているのかも知れません。探訪を続けたいと思います。

となむ語りつたへたるとや。

🟨キンちゃん語録 「鎌倉の初夏はさわやかでいいな。」

フォトは、東京 根津美術館の庭園のカキツバタです。


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